講義録を通じた校外生のなかからは、その後本学の正科に進んで卒業し、一九一〇年代から一九三〇年代にかけて、本学を研究・教育・経営面で支える人物が表舞台に登場した。本学教員としては塩沢昌貞・津田左右吉・田中穂積・西村真次・高橋清吾・二木保幾・吉村正などが挙げられ[『出版部100年小史』]、塩沢・田中は総長を務めた。また、講義録の購読者は様々な社会領域の人々に及んでおり、農民運動に従事した渋谷定輔[『早稲田の通信講義録とその時代1886―1956』]、相撲界の男女ノ川(横綱)[上坂一九七一]、本学配属将校の平野助九郎(3-3-3-2参照)[『早大新聞』一九三五年五月二二日]なども本学の講義録に接して、学んでいる。また、「故総長大隈侯爵記念事業」に際しては、校外生一万人から約七千円の寄附がなされたという[種村一九三二]。講義録の普及は日本の国内にとどまらなかった。早稲田同攻会の支部は朝鮮・台湾・南樺太・中国・満州にも及んだ。講義録の購読者には朝鮮・台湾出身者も含まれ、朝鮮・台湾内の同攻会支部を担う人々もみられた。朝鮮出身者の事例をあげると、李イ丙ビョ燾ンド(一九一五年高等予科入学、一九一九年大学部文学科卒業)は、日本留学以前に文学講義録で勉強していたと述べている[『早稲田会報(韓国同窓会36年史)』]。朴パク天チョン一イルは、二年間の初等教育のみで「あとは終始一貫、早稲田大学の校外生として独学を続け」、朝鮮で警察官勤務を経て弁護士を開業した[鎌原一九三七]。金キム達ダル寿ス(一九三九年に日本大学専門部入学)は渡航先の日本で小学校や夜間中学への通学が充分果たせず、独学で大学入学をめざしたが、文学への関心を募らせるなかで文学講義録の本間久雄「文学概論」に感銘を受けている[金一九七七]。講義録の存在意義創立四十五周年記念式典の期間中に開催された一九二七年の全国校外生大会の席上、高田早苗総長は、「男女両性の校外生」を前に演説を行なって、学内教育で高田が強調した自主学習と教養教育(3-2-2-4)を校外生に対しても訴えた。学問は「教はつてするやうなことでは駄目だ。〔中略〕自分でしなければ駄目である」とはいえ、「さうかと云つ第三部 「デモクラシー」の転換と戦争への傾斜994
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