義録事業を存続させることとなった[『廿年紀念録』]。東京専門学校建学の補助機関として発行し来りたる講義録を、少し位ゐの不況を見ればとて、之を廃刊するは如何にも残念である。而して講義録の発刊が学校建学の趣旨を天下に拡布するの機関とこそなれ、学生入学の不振を来す原因となるなどゝ云ふ事は断じてこれ無き事と確信するが故に、従来の行やり方に一大刷新を加へ、多少の損失覚悟で、今一年是非行つて見ようではないか〔後略〕。(『田原栄君紀念録』)東京専門学校では講義録発行の実務を担当する職員に卒業生を雇用し、政治科の講義録は山沢俊夫・田中唯一郎、法律科・行政科の講義録は小山愛治・細野繁荘が担当し、また、別に速記者数名を雇い入れて、参考課目の講演を速記させた[『中央学術雑誌(第二次)』五]。さらに、「高田俊雄、吉田巳之助、芳賀芳輔、前川九万人、白髭武三次、中村音吉外数氏は、拮据として日々欧州大家の学説を翻訳し、毎号附す可き参考課の材料を供給」するなど、単なる正規講義の活字化だけでなく、それ以外の参考課の充実に力を入れた。この時期、東京法学院・和仏法律学校・専修学校・日本法律学校・明治法律学校・哲学館など、各専門学校があいついで講義録を刊行しており、競争は非常に厳しい状況にあった。しかし、高田や田原は熱意をもってこれに挑戦し、「府下各種講義録中将に一頭角を顕はさんとす」ることを目論んだ[『中央学術雑誌(第二次)』六]。当時存在した通信講義録中、短命に終わったものも多いなかで、本学の講義録は、その後、紆余曲折を経ながらも発展を続け、一九五六(昭和三一)年に募集を停止するまで、実に七〇年にわたって二〇〇万人を超える購読者を得ることになる。その礎は、以上みてきたように、高田・田原以下の人々が、草創期にリスクを顧みずに挑戦を続けたこの時期に築かれたのであった。209第三章 公教育制度の整備と東京専門学校
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