早稲田大学百五十年史 第1巻
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大隈条約改正交渉このように、彼らの政治熱は、井上馨外相時代には反政府運動として高まったのであった。井上馨はこうした反対運動の高まりもあって条約改正交渉を断念し、外相を辞任した。伊藤博文首相が外相を臨時兼務したが、その後を受けて外相の任に就き、条約改正交渉にあたったのは、本学の創設者大隈重信にほかならなかった。「明治十四年の政変」で下野した大隈は、第一次伊藤内閣末期の一八八八年二月一日、請われて政府に復帰して、続く黒田内閣でも引き続き外相として条約改正交渉にあたった。前任者の井上馨外相は対象となる各国の代表を一堂に集めて改正交渉を進めたが、この方式では列国の団結や議論の紛糾をもたらすだけだとして、大隈は各国別に談判を行なう形式に改めて交渉を進めた。ただし、旧条約には最恵国待遇が規定されていたため、新条約をすべての締約国と結ばない限り、日本は新たな権利を取得できないことになってしまうという危惧があった。大隈は、この最恵国待遇は無条件的なものではなく、有条件的なものであると解釈し、旧条約国が新条約に規定された新たな待遇を享受するには、新条約に規定された譲歩を行なう必要があると主張して、個別交渉を有効にすすめようとした。さらに、交渉に応じる国には有利な条件を付与する一方、旧条約締結国には条約廃棄をも辞さない姿勢をみせるとともに、旧条約の規定を厳密に適用することによってその不便を感じさせる「条約励行」を実践するなど、従来よりもかなり強硬な交渉姿勢をとった。大隈案の主な内容としては、外国人に土地所有権を与えること、列国の領事裁判権を五年後に廃止すること、その代わり大審院に数名の外国人判事を任用すること、などが規定されていた。井上前外相が交渉の土台としていた英独案では、外国人判事・検事の任用が規定され、とくに控訴院・大審院は過半数を外国人判事とするとされていたので、それに比べ任用範囲は大幅に狭まった。また、外国人に日本の法律を適用するにあたっては、日本の法律の整備が問題となる。井上案では「泰西主義」、すなわち近代市民法原理に基づく民法以下の諸法律を整備するとされていたが、大隈案第一部 近代国家像をめぐる相克と「学問の独立」218

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