早稲田大学百五十年史 第1巻
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幕末維新の変革と大隈重信大隈重信は一八三八(天保九)年、肥前国佐賀藩士の子として生まれた[以下『大隈重信自叙伝』]。幕末の佐賀藩では、藩主鍋島直正(閑かん叟そう)のもと、藩政改革が進められていた。その柱の一つが教育改革であった。藩校弘道館は学問追究と実力養成のために拡充された。また、一八四四(天保一五/弘化元)年には、医学寮内に蘭学寮を併設して、蘭学教育の推進にあたった。こうした佐賀藩の改革機運のなかで、大隈は成長していった。弘道館には、初級学校にあたる外生寮(蒙養舎)と、上級学校にあたる内生寮があり、藩士の子弟は、数え年六~七歳になると、まず外生寮に入った。大隈も一八四四年、外生寮に入り、内生寮には一八五三(嘉永六)年に入った。ペリーが来航し、幕府に開国を要求したのは、大隈が内生寮に入った年のことである。情勢は大きく動きはじめていた。弘道館の「窮屈なる朱子学」と『葉隠』的な武士道に反抗しながら成長した大隈は、一八五五(安政二)年、寮生の内紛の結果、退学となった。翌年、大隈は蘭学寮に入り、蘭学を学んだ。このとき、物理、歴史、政治に関する書物を読み、オランダ憲法やアメリカ独立宣言に接した。一八六一(文久元)年には、蘭学寮の教官に任命されている。一八六四(元治元)年、大隈は藩当局に経済政策を建言して、代かわり品しな方かた(物産を流通させるために設置)の役人として長崎に赴任した。翌年、長崎でオランダ系アメリカ人宣教師のフルベッキのもと、英学を学び、アメリカ憲法やキリスト教などを学んだ。一八六七(慶応三)年、佐賀藩は長崎に蕃学稽古所(翌年八月、「致遠館」と改称)を設立したが、大隈はここで英語を教えた。しかし、情勢は大隈が教育・学問に専念することを許さなかった。大隈は激動する幕末の政局のなか、志士として奔走した。後年、大隈は幕末期を回想して、教育・学問への思いをつぎのように語っている。余は今に及んで一生の憾事と為すものあり。それは何事といえば、かの当時に於て効果なき運動を断然と止めて専ら心を学事に5第一章 東京専門学校の創立と建学の理念

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