早稲田大学百五十年史 第1巻
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部を借り受けて発会したのである。規約では、隔月の第二土曜日を倶楽部デーとして茶話会を開催し、また、娯楽の機会として、玉突(撞球)、謡曲、囲碁などの会を開くことになっている。翌一九一六年、大阪校友倶楽部は日清生命保険会社大阪支社内に移転し、七月八日、ここで大阪校友倶楽部デーが開かれている[『学報』二五八]。五 校友の文学者『早稲田文学』・『太陽』・『読売新聞』文学科を創設した坪内逍遙(雄蔵)は、『小説神髄』や『当世書生気質』などの著作で知られており、初期の本学出身の文学者としては、北村透谷(門太郎・一八八五年退学)・宮崎湖こ処しょ子し(八百吉・一八八七年卒業)・国木田独歩(哲夫・一八九一年退学)があげられる。このように、文学科創設以前から、本学から文学者は生まれていた。しかし、本学において校友の文学者が続々輩出するようになったのは、文学科設置以後である。文学科創設(一八九〇〈明治二三〉年)と『早稲田文学』創刊(一八九一年)以降、本学独自のカリキュラムで文学者が養成されるようになった。金子筑水(馬治・一八九三年卒業)は、文学科第一回生で、『早稲田文学』の主要メンバーとして活動した。また、後藤宙外(寅之助・一八九四年卒業)は、在学中から坪内に認められ、卒業論文を『早稲田文学』に掲載した。さらに、五十嵐力(一八九五年卒業)は、一八九六年に『早稲田文学』記者となり、自身でも小説・評論を発表した。加えて、綱島梁りょう川せん(栄一郎・一八九五年卒業)は、在学中坪内家に下宿し、『早稲田文学』の編集を担当し、卒業後も『早稲田文学』休刊(一八九八年)まで編集にかかわったが、病気のため長期療養を強いられた。第二部 「模範国民の造就」とデモクラシーの機運768

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