雄弁会など学生諸団体の解散雄弁会は一九〇二年、永井柳太郎らが安部磯雄を会長として結成した学生団体であるが(2-1-5-4参照)、時代とともに性格も変わった。雄弁会は建設者同盟、文化同盟、のちには社会科学研究会の学生の多くと関係があり、時には新聞学会とも表裏のような関係にあった。大山郁夫が本学を去った後は、二木保幾が雄弁会会長の地位に就いていた。一九二八年六月二六日、雄弁会の主催で大学擁護演説会が本学構内の教室で開催された。一九二三年の研究室蹂躙事件に際し、六月二六日に「大学擁護演説会」を開いて以来、雄弁会はこの日を「大学擁護記念日」と称して学内で記念演説会を開いていた[以下、稲岡他一九六一]。当日、演説会の最中に、第二高等学院の一学生が「緊急動議」と叫び、社会科学研究会の学生たちが演壇を占拠して、雄弁会の演説会を学生大会に変更する決議を行ない、「早大自治学生大会」を学生大会の名で結成した。その後、屋外に出てデモンストレーションに移り、決議文を学生課の学生監に手交した。六月二七日の臨時理事会で田中常務理事は、「雄弁会主催大学擁護記念演説会及其直後ニ起リタル一部学生ノ校庭集会ノ件」について説明し、また、この日、二木雄弁会長、第一・第二両学院長、第一・第二両学院弁論部長を招集して協議したことを報告した[以下「*理事会」10]。これをうけて理事会は、「講演会ニ関スル指示事項」を各学会長または部長に通牒することを協議・決定した。ついで六月三〇日、理事会は「大学擁護記念演説会」とその後の「校庭ニ於テ行ハレタル所謂学生大会」に関し、「不穏不当ノ学生」六名の処分を決定した(文学部一年一名、専門部政治経済科三年二名、同二年一名、同一年一名、専門部法律科一年一名を諭旨退学とし、受けいれないときは除籍)。雄弁会のこの演説会は、学生大会を開かないという口約のもとで、大学当局の開催許可を得ていた。二木は雄弁会の会長を辞任した。雄弁会は後任の会長を得ることができず、翌一九二九年五月一〇日、継続願出の期限が切れて、自然消滅するにいたった。こうした措置に反発する学生は、五月一一日と一五日の両日、校庭に集まって、雄弁会解散反対、学生自治権第三部 「デモクラシー」の転換と戦争への傾斜924
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