――早稲田大学プレリュード――年(大隈二十七歳)であることは明確だが、月日に至っては諸記録が記述を欠いて分らない。致遠館 一 二十年前の学校設立経験早稲田学苑創設までの大隈の生涯を、仮に前期と後期に二分し、その後期の太政官に出仕して明治政治に参画してからの事歴で、学苑ときわめてささやかながらも緊密に直結するものは、東京大学学生有志数輩が小野梓を奉じて組らしめる意味という。この学館の命名は、或いは恐らくこれら両様の意味を含めているのかもしれぬ。設立が慶応元当時、佐賀藩学の弘道館は守旧派が勢力を振って、洋学派は圧迫せられても、蘭学派は新思潮に触れようとして容易に屈しない。火術方のため建てられた蘭学寮は次第に陸軍の機関学校のようになって、三重津の海軍学寮と対立する。両面に敵を受ける形の蘭学寮生には、時勢の結果で英学への転向または兼修希望者が多い。その英学学習は、佐織した鴎渡会で、その前期の鍋島藩在住時代、遠くきわめて間接ながら、早稲田学苑発起の源流ともなるべきは、致遠館の設立である。致遠の語は古代の諸書に見え、『三国志』「蜀書」諸葛亮伝に「誡子書曰、非澹泊無以明志、非寧静無以致遠。」とあるのは最も広く人口に膾炙しているであろうが、これは遠きをきわめ、或いは遠大な任務に堪えるとの意味である。『後漢書』班固伝下に「上可継五鳳甘露致遠人之会」とあるは、遠方の民を招き来た第十五章
元のページ ../index.html#195