余が郷里たる佐賀藩には、弘道館てふ一大藩黌ありて其の生徒を内生、外生の二校舎に分ち、今の小中学の如く、一定の課程を設けて厳重に之を督責したり。藩士の子弟にして六七歳になれば、皆外生として小学に入らしめ、十六七歳に至れば中学に進みて内生となり、二十五六歳に至りて卒業せしむる程度なり。若し其適齢に及ぶも、猶学業を成就する能はざるものは、其罰として家禄の十分八を扣除し、且つ藩の役人と為るを許さぬ法なりき。(是を課業法といひ嘉水三年に施行したり)然るにめ、痛く他の学派を擯斥したり。斯くの如き学制なりしを以て、闔藩の少年子弟は、皆な弘道館に入りて、其の規定通りに朱酷なるものなり。明成祖が対偶声律を以て人を採れるさへ、猶後人に秦皇の焚書愚人法よりも有害なりしとて非議せられたり。それによって、幼少時代から青年時代までに大隈の教養を探ってみると、勿論数え十六、七歳の頃までは、その藩うに思い込み、その言うことは、みな聞くのである。先ず大隈自身の語るところを聞こう。其教授法は、先づ四書五経の素読を為さしめ、次に会読を為さしむるものにして、其学派は専ら頑固窮屈なる朱子学を奉ぜし子学を修め、試験に及第して家禄を全収する志を起さざるを得ざらしめたり。偶々、高材逸足の士あるとも、此の方途を践まざれば其の験足を伸ばす能はざるが故に、一藩の人物を悉く同一の模型に入れ、為めに倜儻不覊の気象を亡失せしめたり。藩黌に入りて制科に及第せざれば、家禄を減ぜらるのみならず、亦仕途に就く能はずと為すは、是れ明清の登科及第法よりも厳佐賀藩の学制は、豈に余多の俊英を駆りて凡庸たらしめし結果なしとせんや。は、殊にその甚だしきものであった。再び大隈の語るところを聞こう。余が始めて学に就きたる時代に於ける佐賀藩の学制は此の如くなるが上に、又其窮屈に加味するに、佐賀藩特有の国是とも謂ふべき一種の武士道を以てしたり。謂ゆる一種の武士道とは、今より凡そ二百年前に作られたる、実に奇異なるものにして、(『大隈伯昔日譚』二―三頁)学を何の抵抗もなく、無批判に、従順に受けている。幼い頃、物の習い初めには誰しも、先生ほどエライ者はないよ師により、若干、解釈や理解に差異が生じたとしても、中心の学説思想は、大体傾向を等しうする。その画一主義には、さすがに封建時代でも飽き足らぬものを感じて、藩によれば、これに独自の訓育法を加えたところがあり、佐賀これは公式な藩学教育で、寛政異学の禁以来、全国三百諸侯の藩、みな朱子学を正学としたので、土地により、教
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