て武道の稽古場ができ、若干の修練がなされた。学の禁には、双手を挙げて賛成し、呼応し、最も有力な台風の目となった。寛政の三博土四 世の尋常のことでなく、一代の光栄であり、彼自身としては終生の誇りとするに足ることであった。 この天下に正学を拡げ、異学を禁ずる新運動の総帥となったのは柴野栗山で、天明八年正月十六日、官儒として中る。そして約五年間は、柴野、岡田、尾藤の三人が主となり、聖堂に、いわゆる正学を講じたが、岡田は代官となって転任するに及び、交替として指命されたのは、意外にもまた正当にも、古賀精里であったのだ。しかしそれを判釈する学派、学説は、まだ厳しい制限が置かれているようには見えないが、いわゆる寛政異学の禁が公布され、全国の学問が一様に、朱子学に限られることになると、もともと鍋島藩は、古賀精里が陽明学から発足三人で、この異学の禁の施行と防衛を固めた。この異学の禁は、今の思想統制で、歴史上、真に注目すべき事実であ意外というのは、柴野は阿波、尾藤は伊予、そして岡田は地元の江戸だが、古賀に至っては、江戸にも京都にも最も遠い田舎学者たるに過ぎぬ。それが、幕府の召を蒙り、江戸中央学界に華々しく打って出ることになるのだから、当然だというのは、柴野栗山は程朱の学を奉ずるといっても、洪量寛容の彼は、新井白石も、室鳩巣も、熊沢蕃山し、京坂に学んで、宋学(朱子学はその中心)に洗脳してきて、藩の学風を一新した因縁経歴があるのだから、この異央に召し出され、翌寛政元年九月十日には岡田寒泉がまた招きを受け、そして翌寛政二年の五月二十四日には、疾風迅雷、耳を掩うの暇もなく、異学禁制の大号令が発布され、そして翌三年九月二十一日には尾藤二洲が徴を受けて、
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