早稲田大学百年史 第3巻
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そこでは、評議会、政治研究会などの左派勢力をどう扱うか――排除するか、入る余地を残すか――で激論となり、タゴタが続いた。すなわち、共産党を除くという点では合意を見たが、共産党以外の左翼勢力をどうするかの意見統労働総同盟内部の対立から、左翼組合の関東地方評議会所属の七労働組合が総同盟から除名されており、除名された人達は五月二十五日、日本労働組合評議会を結成した。こうした左右分裂の事態は、政治研究会の活動に大影響を与と思案をめぐらす中で、「全国単一無産政党」の構想を固めつつあった。今や、その構想を実現しうる立場に立った普選の実施が近づくにつれて、対立はいよいよ深まり、局面は全体として混沌たるものとなった。十五年一月、無原則的には左派勢力も入れるべきだとの結論にはなったが、全体的には右派のペースで進んだ。員を選んだ。大山は布施辰治、黒田寿男らとともに、中央委員に選出された。大山は先に調査委員として、いろいろ移す可能性は殆どなかった。しかし、大山はその夢を捨て切れなかったのである。大正十四年十二月一日、総同盟を中核とする農民労働党が結成されたが、政府は直ちに結党禁止命令を出した。産政党準備懇談会が大阪中之島公会堂で開催された。出席したのは総同盟、日農などの右派ないしは中間派であった。に至って、労農党は事実上崩壊したが、大山らは労農党を抛り出す気にはならなかった。彼を社会科学研究の守護神えることになった。八月十五日、政治研究会は綱領委員会を開いたが、左派の巻き返しにあって紛糾し、右派の島中雄三、高橋亀吉、中沢弁次郎らが中央委員を辞した。十月七日、政治研究会は臨時全国大会を招集し、新たに中央委のであるが、労働総同盟と日本労働組合評議会とへの労働戦線の分裂を前提として考えるならば、その構想を現実にいよいよ三月五日、労働農民党(労農党)が結成された。しかし、この段階になっても、左派の扱い方をめぐってゴ一ができなかったのである。そして、十月二十四日に至り、労農党は大きく旋回した。同日の第四回中央委員会において、遂に総同盟などの右派は脱党を宣言し、安部磯雄、三輪寿壮、賀川豊彦らが中央委員たることを辞した。ここ   

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